『栗原群岩ケ崎村絵図』宮城県公文書館蔵
奥州平泉が栄えていた頃から人馬の行き交う拠点として広がっていった場所。「蒜香郷岩ケ崎邑」、「黒岩口」、「初ケ崎」と古書にあり「岩ケ崎」という地名となっていく。歴代邑主により城下町として整備が進められ、現在も随所にその名残をとどめている。葛西・大崎氏の滅亡後、富沢氏から伊達政宗の領地となった岩ケ崎は、政宗の五男宗綱、六男宗信、石母田氏、田村氏、茂庭氏と続き、その後明治に至るまで伊達家の重臣中村氏へと受け継がれ、二日町、四日町、五日町、六日町、八日町と市が立ち、活発な賑わいのある町となっていった。
岩ヶ崎の町は万々歳
耕地開拓本百姓ふえ
栗駒山のふところに
藩の誇りとなりたりて
達御用馬買上げ第一位
岩ヶ崎城下の馬市は
鍛冶屋職人大繁盛
青杉葉線香作り
中村草履は履きやすく
鶴丸城下の地場産品
腕
の
達
者
な
職
人
衆
写真『中村小治郎』、『栗原軽便鉄道』栗原市所蔵
第三代目町長中村氏は「栗原軽便鉄道」を設立。細倉鉱山の資源が運ばれ沿線の町の経済を豊かにうるおし、岩ケ崎はその中心として繁栄していった。
高度経済成長期をピークに、その後は人口の減少・交通インフラの変化・郊外型大型店の進出・経営者の高齢化・経営状態の悪化・後継者不足等により、廃業する店舗が後を絶たない。昭和50年代まではスーパーマーケットをはじめ生鮮三品を扱う店舗も複数あり、買回り品のほとんどを六日町通り商店街で賄えていたが、平成20年頃には青果店一店を残し生鮮食料品関連の店は廃業していった。
そこで、商店会は平成28年に『地域おこし協力隊』を導入し商店街の活性化を図った。いま、商店街には二人(写真左から二人)の協力隊員がおり、商店会の仲間たちと「シャッター開ける人!!」と称し、空き店舗の調査や情報発信、イベントの提案や商品開発など、様々なアイディアを出し合い町のシャッターを一軒でも多く開けようと試行錯誤している。ゆくゆくはこの商店街を上質なものが揃うひとつの百貨店のような空間にしようと目下構想中である。